モクジ

● 三 色ジャム  ●

 彩葉はさっきからずっと、チェーンにまとまった洗濯バサミに吊るされる黒いショーツから目が離せなかった。部屋の隅に置かれたベッドから見上げるそれ は、窓の隙間を流れる風に揺れている。七月七日、朝方の窓硝子は薄紫色の光を通しているが、ショーツの黒がそうした色に染まる模様は無い。
「どうしたの」
 右耳の下辺りから理々奈の声がする。ショーツを捉えていた視界の下隅に、持ち主である彼女の頭が少しだけ見えている。黒い髪からはほんの少しだけ杏の香 りがする。彼女の感触や熱も、さっきから裸の全身に感じている。部屋には時より強い風が吹き込んでいて、肩の先が妙に寒い。
 彼女の舌が鎖骨と肩の間にある窪みに触れ、それから首の筋に湿り気のある線を引く。舌がその線を何度か往来すると、今度はそこを短いキスが跡を付けてい く。最初はほとんどくすぐったさしか無いが、澄んだ雫が段々と溜まるようにそのうち熱い気持ちが込み上がってくる。背中を抱き込む理々奈の両腕に応じて、 彩葉も理々奈の背中に腕を回す。それが合図になり、彼女は両膝で軽く勢いをつけて彩葉の真上に乗り舌を入れた。舌と舌は軽く押し付け合うように重なり、そ れから片方が流れ込むようにしてしばらく絡み合う。口の中で淫らになるその様子には、確かに音があった。時より途切れ途切れになる呼吸の音やシーツのすれ る音などは耳の外から入り込むが、その音はそうではない。耳とは別の入口があって、頭の中でその時限り形容されてそれっきり思い出せなくなるような、不思 議な音がするのだ。
「あれを見てたの」
 彩葉は黒いショーツを指差した。理々奈も首を捻って、一緒に見上げる。理々奈は長いこと兄と一緒に暮らしている。下着を干す場所なんてここくらいしか見 当たらないのだろう。
「あれがどうかしたの」
 どうというわけでもなかった。夜通し深め合う中、ほんの少しだけ頭に生じた余白を埋めていたのが、あの黒いショーツだっただけだ。
「もう乾いてる」
 返事をしないでいた彩葉の傍らで、理々奈が呟く。後で取っておかないと。それを聞いて、彩葉は不意に理々奈の手首を握った。
「取っちゃうの? 」
「うん、後でね」
「待って」
 あのショーツを取ってどこかへやってしまうのだと思って、急に胸が痛くなった。ぼんやりとしていた頭に水でも打たれたような気がした。語勢が強くなって しまったのかも知れない。理々奈は目を見開いて、彩葉を見ている。
「ねぇ、あれ、穿いて」
「え? 」
「穿いて、今。 理々奈があのパンツ穿いてるの、見たいの」
 言葉が先なのか、そう考えたのが先なのか、彩葉にはわからなかった。ただ、胸の痛みを感じて本当に何の理由も無くショーツを見ていたのかどうかもわから なくなっていたし、その上で言葉にした通りの欲求があったのかと思うと、そんな気もした。理々奈が何時間か前に見せた下着の色は、黒では無かった。
「ね、お願い」
「やだ」
「どうして」
だって、と言ってから、理々奈は下を見た。互い乳房で塞がる、更に奥。理々奈の下腹部は湿っていて、少しすると、背の高い彩葉にもそれがわかった。何らか の拍子で身体を動かすと、ぬるぬるした物が臍の下辺りに付いた。
「じゃあ、拭いてあげるから」
「何言ってるの」
「見たいんだもん」
「変なの」
 理々奈は仕方なく立ち上がり、洗濯バサミの束から黒いショーツを取って右膝を上げた。左右に軽く伸びたショーツの穴に、それは爪先からスッと降りてい く。オリンピック中継でダイビングを横から観るのに似ている。水面を僅かな波紋を残して落ちる、綺麗で顔の区別の付かない女がいる。彩葉は最初仰向けのま まその様子を見ていて、理々奈が左膝を上げると起き上がり、脚を横にして座った。目線と同じ高さで露になっていたピンク色の亀裂が、ふくらはぎや太腿を 通った黒い下着で隠れるのを見た。ほんの二秒間の光景は、連続写真のように分解されて、彩葉の頭に焼き付いた。その時、彩葉は理々奈にひどく欲情した。
 彩葉は彼女の腰を両手で掴んで、ゆっくりと下着へと顔を近付けた。黒色が一杯に広がり、微かに洗剤の匂いがする。左の内腿にキスをすると、彼女は短く声 をあげた。下着の上から指で秘部に触れると、やわらかい肉の感触と、湿り気があった。
「私の番だったのに」
 濡れている個所に舌の腹を押し当てると、理々奈が少し不満そうに言った。代わり代わりに上になるのが二人の決まりだった。彩葉が微笑みながら一回休み、 一回休み、と言うと、理々奈は観念したように頬を緩ませて自分から腰を下した。仰向けになった彼女の下着に、彩葉はもう一度舌をやった。味気の無い中に、 少しだけヒトを思わせる何かがあった。洗剤の匂いはもうしない。上目づかいに視線をやると、彼女の腹部が大きく上下しているのがわかる。胸の上にやった手 が、強く握られている。下着を横へずらすと、亀裂から溢れた愛液が周りの肌を広く濡らしていた。舐めとるように舌を這わせると、愛液の跡をそのまま唾液が 覆ってしまう。彼女がもう片方の手でシーツを掴みながらくぐもらせる声を聞いて、不意に亀裂の中を舌で突くと、彼女は身体を強張らせながら甲高い声を吐い た。
「は、あっ」
「脚、広げて」
 脚を開き、はっきりと開いた彼女の中に指を入れる。熱く、吸い付いてくる襞を感じると、彩葉も同じように片手を自らの下腹部にやった。濡れている中に、 指を入れていく。両方の指を同じように動かすと、ときどき一緒に声が出る事がある。彩葉にはそれが良かった。時々するシックスナインでは一度も上手くいっ た事がなかったら、こうする方が好きだった。
熱に呑まれて感覚の鈍くなった指は、やがて一番奥にある皮膜に触れる。それについては撫でるだけで、傷を付けてはいけない。自分がするべきでは無い事、さ れるべきで無い事を、互いによく知っている。
「あ、あっ、んぅっ」
 彼女に入れた指を抜き、もう一度顔を近付ける。だらんと舌を出して、零れおちる液を受け止めながら逆流するように舐め上げた後、唇をすぼめてクリトリス を吸う。充血した小さな粒には、はっきりと感触がある。不意に歯を立てると、彼女の身体が小さく仰け反った。さっきよりも高い声は、少し後に続く。顔を上 げると、理々奈と目が合った。細い目をしながら、口で荒く息をしている。唾を飲み下し、顎の下から喉元がはっきりと動く。弱々しさを見せる一方で、潤んだ 瞳には確かに恍惚がある。彩葉は鼻をすすって、一気に亀裂の中に舌を潜らせた。襞の一枚一枚を確かめるよう 

に動かしながら、もう一度自分の中にも指を入れ、激しく掻き回す。
「はあ、あっ、あ、あん、あ、んんっ」
口火を切ったような彩葉の動きは、そのまま彼女の反応にも繋がる。内腿が固くなり、彩葉の頭を挟み込むように力が加わる。ざりざりと髪を擦る音を聞きなが ら、彩葉は彼女の声が高くなっていく様と、自分の下半身に愛液とは違う雫が溜まっていくのを感じる。その頃合いで、何となく彩葉自身にわかる昂りで、彩葉 は口を離し、彼女の下着を脱がせるとすぐに脚を絡めながら上に乗った。両方の指で愛でていた二つの亀裂が重なり合い、その瞬間、柔らかい肉を押し込む触感 や違う形をした襞が擦れ合うそれと一緒に、キスの時に感じていたあの頭の中で響く音を思い出した。ぬるん、と言う音がした。
「あ……」
 彩葉は溜息に似た声をあげながら肩の先を震わせ、それから彼女の肋骨に手を当てながら腰を振った。あまり体重を落とすと陰毛が強く擦れて痛いが、最初の うちはそれでも構わない。痛みや快感よりも、二人が限り無く近付き合って愛撫し合う様を噛み締めるだけで十分だった。
「ああっ、あ、はあっ、ん、っはぁっ」
「理々奈っ、あ、いっ、あ、だめっ」
 先に果ててしまいそうになり、彩葉は緩く倒れこむようにして動きを止めた。強引に布団の上へ両腕を潜らせて彼女を抱きしめ、長い時間舌を絡めた。それか ら下腹部への快感が引いてくるまで胸を吸い合って、もう一度彩葉が上になる。今度は身体を軽く浮かせて、襞よりもクリトリスの先を擦るように腰を動かす。 途中から、彼女は彩葉の乳房を掴んで、捏ねるように回した。そのうち腰を振る動きの反動に負けて視線が乱れるようになると、彩葉は寝そべったまま彼女と一 緒に腰をくねらせた。酔いしれるような彼女の顔を見ていると、下腹部からの水音やベッドの僅かな軋み等が他人事のように聞こえた。そして二人は絶頂した。
 長い声を吐き出しながら、両脚の爪先まで一気に力が籠もる。固くくっついた襞の間から愛液が垂れ、シーツに零れる。その襞が完全に離れるまでにはもう少 し時間がある。意味も無く腰を突き出してみたり、どちらかが唇を求めたりして余韻に浸った後、ようやく身体ごと離れるのだ。
「今何時」
「六時」
「眠い? 」
「ううん。彩葉は? 」
「そんなに」
 窓の外からは黒い下着の背後にあった薄紫色が消え、代わりに金色を帯びた透明な光が照らしていた。今、あの洗濯バサミに黒い下着が挟まれていたら、それ は朝の光を吸い込んで、煌びやかな雰囲気を飾るのかも知れない。
「先にシャワー入りなよ」
「いいの? 」
「うん。後で入ってそのまま朝ごはんの支度したら丁度いいみたい。」


 彩葉は了承して、ベッドを降りて何時間も前に脱いだ服や下着を手に取った。朝ごはん、あたしも手伝うからね。そう言うと、理々奈はいつもの顔に苦笑を混 ぜて頷いた。



「ご、はんになぁとうみそしるのりたっまっご、何だっけ、と…すとさらだにおむれつみっるっく」
 キャベツを切りながら調子良く口ずさむと、少し間を空けて理々奈が怪訝そうな顔をした。
「復活の呪文? 」
「違うよ、こういう歌があるの。知らない? ミルクはカルシウムで野菜はビタミン豊富でさぁ」
「あ、おかあさんといっしょの」
「違う違う。後で動画見せてあげる」
 下らない話をしながら焼くベーコンエッグの香りを嗅ぎつけて、黒猫が理々奈の足元をうろちょろと回る。
「駄目、ミント」
 理々奈に拾われた猫にはミントと言う名前が付いていた。恩を感じているのか、ミントは理々奈によく懐いている。部屋のドアを開けて椅子に座っていると何 処からかそのうちやってきて、必ず理々奈の膝の上で丸くなるらしい。
 猫や妹、その他もう一人で賑やかになった台所を背後に、起床一番に髪や服装を整えた聖奈が食卓からぼんやりとテレビを眺めている。昨日遅くに帰り泥のよ うに眠った後、土曜も得意先を回りに出て行くのだ。土曜日に限ってファッションやレジャーに敏感なニュース番組が特集を始める。七月七日。今日は七夕で す。聖奈は思い出したように理々奈に聞いた。
「夜、祭りに行くんだって」
「うん、そう。あ、それまでお店行こっか 」
 今夜は郊外の神社で、七夕祈願祭が開かれる。神社に大きな笹の木があって、周りや通りをやくざな出店で囲うありがちな祭に、彩葉と一緒にROOTS26 最新モデルの浴衣を着て行くつもりだ。
「いや、いいさ。それより、二人で行くのか? 」
「うん」
「そうか」
それだけが気掛かりだったのだろう。聖奈はテレビに視線を戻す。
本当はそうじゃない。理々奈はサイレンと、彩葉は慧靂とダブルで待ち合わせて、別々に楽しむ予定になっている。昨日から一睡もせずに求め合っていたのは、 緊張でどうにかなってしまいそうだからなのかも知れない。嘘は付きたくないが、サイレンとの事ばかりは自分だけが悪いのでは無いと理々奈は思う。
「そんなに回りくどい事言わないでさ、まさかオトコと行くんじゃないだろうなって素直に聞けばいいのに」
 彩葉の一言に、兄妹の眉がぴくりと動いた。少しの沈黙の後、彩葉は何事も無かったように猫とじゃれる振りをした。


 朝食の後、聖奈はきっと今日も遅くなると言って仕事に出掛けた。二人は皿を洗い終えると、理々奈のパソコンで面白そうな動画を探してから、しばらくの間 JUDY AND MARYのCDを聞いて過ごした。夏の熱気と窓越しの青空を受けながら聞く音楽にはうってつけで、特に二曲目にかかった『くじら12 号』が良かった。暑苦しいくらい籠った音がスピーカーの狭い穴をギチギチにせめぎ合うビートと、対照的に甲高いYUKIの声で歌われる透明な詩。レモンス カッシュの雨を浴びるような、最高の気分にさせてくれる。
 汚れたシーツを取り去ったベッドの骨組に凭れながら、理々奈が言った。
「ジュディマリのマリーって、マリファナの事なんだって」
「ジュディちゃんとマリーちゃんじゃないの」
 彩葉がコンポのイコライザーをいじる手を止めて聞く。理々奈はCDケースの裏面を見てから言った。
「クスリを打った女の子の音楽って事じゃないかな」
「じゃあ、ポップンのマリィが麻薬漬けになったらレイヴガールになるのかな」
「え? 」
「レイブって、飛んでるとか狂ってるとか、本当はそういう事なんだって」
彩葉はそう言ってから、マリィがクラブのトイレで注射を打ち、最高にハイなダンスを踊る光景を想像した。誰かが名前を聞くと、自分の名前もわからないくら いに飛んだマリィは、自らをレイヴガールと名乗るのだ。
「夢壊れるね、それ」
理々奈は苦笑交じりの声で言った。きっと、同じような事を想像したのだろう。注射の際、腕をゴム紐で縛る所までイメージ出来たのかは、わからない。マリィ の肌と同じような色をしたゴム紐だ。


 十一時頃にアイスを買いに行こうと言う話になって、二人乗りの自転車が住宅街を駆けた。日蔭で静かに熱を帯びていたサドルに理々奈が腰を下ろし、後ろか ら彩葉が肩を掴む。朝のニュースの天気予報が何を伝えていたかは二人とも覚えていないが、袖の短いシャツから晒した腕は日中だけで小麦色に焼けてしまいそ うだ。歩道にまばらに散らばっている人々も、普段よりもゆっくりと歩いているように見える。同時に、そんな天気の下でオトコと回る七夕祭りへの期待が込み 上がる。
 今日のデートについて。二人で何日も前から喋り尽くした話の、同じような振りと同じような落ちを改めて繰り返す。たこ焼きとタイ焼きをどっちから先に買 うか、射的と金魚掬いはどちらが魅力的か。今日はどこまで行けるのか。いずれも自分の希望や意見を言い合った後で、最後には必ずおごってくれたらいいな、 とか、向こうから来てくれたらいいな、と相手のリードを希望する。そんな話がひたすら続くうちに、目的のコンビニは見えた。
 昼前のコンビニには、冷蔵棚の前でランニングシャツから黒い肌を晒す作業員達が大挙していた。後ろを通ってからふと視線を感じると、悪いと思いながらも 身の危険を感じてしまう。二人はすぐにアイスを買って会計しようとしたが、レジに行くまでの通りで彩葉がチョコレートの列に目を奪われると、一度アイスを クーラーに戻すくらいゆっくりと物色してからようやく店を出た。マーブルとガナッシュの箱チョコとポッキーに、ガリガリ君のソーダ味と麦茶。きっと明日か らは運動を節約としなければならない。
「あたしが漕ぐよ」
 店を出て、自転車の鍵を外した理々奈に彩葉が言った。頷いてサドルを譲ろうとする理々奈と、軽く手が触れる。手が触れて、彩葉は一瞬固まり、そのまま理 々奈に振り返った。
「ね、理々奈気をつけ」
 理々奈が首を傾げながらその場で立ち直すと、彩葉は理々奈の両肩に手を置いて、ゆっくりと顔を近付けた。
「え、ちょっと」
 キスしようとしている。唇が触れ合う寸前で、理々奈は彩葉の胸を押して逃げるように後退した。
「何、だめだよ、こんなとこで」
「どうして? 」
 答えがわかりきっているだけ、意地悪な質問だった。けれども、やはり彩葉には、押し黙っている間に軽く噛んだ理々奈の唇には魅力がある。
「だって、誰かに見られるし」
「でも、ふざけてるだけって思わないかな」
「思わなかったらどうするの」
「でも、でもさ、してみてもいいんじゃない。チューだけ。誰にもわかんないよ、きっと、ね、ちょっとだけ,」
 言っている間に理々奈が辺りを見回し始めて、きっと拒否しないだろうと思った。その通りに理々奈は無言のまま瞳を閉じて、顔を近付ける。彩葉は理々奈の 腕を掴むと、コンビニにいた作業服の男達に、その瞬間だけ強い嫌悪感を抱きながら、唇を重ねた。朝方よりも乾いていた唇を押し退けて舌を入れようとする と、彼女は怒ったように振り解こうとする。それでも彼女の胸を下から押し上げるようにして身体を重ねると、そのうち観念して長いキスの時間を許した。自動 ドアが開く音や道端の足音には注意する必要があったが、そのような意識も荒い息の交わりと頭の中に響くぬるぬるとした音を聞いているうちに段々と薄れ、彩 葉は視線が泳ぐ彼女の前で一度目を閉じた。目を閉じると常に聞こえている音と舌の味がより鮮明になり、このまま彼女と深い水の底、この熱気を振り払ってく れるような水では無くて、二人が性器を擦る時に聞こえる水音の実体に沈んでしまいたくなった。この感じに溺れるために時々夜遅く彼女の部屋という限られた 空間で深め合う事に、初めてはっきりとした違和感を覚えた。自動ドアが開く音がして二人は反射的にキスを止め、店の方を見た。作業服を着た男達は彩葉達に は気を留めず、適当に喋りながらボロボロのワゴンに乗り込んでいく。先に顔を離した理々奈は、小声で怒りながら彩葉に言った。
「もう、何考えてるの」
「何が? 」
「何がって、入れたじゃない」
「何を? 」
「舌! 途中から目もつぶるし」
「理々奈は開けてたの」
「だって……なんかすごく汗かいちゃった。冷や汗」
目を開けていた理々奈にはきっと、あの時彩葉が感じたような違和感は無いのだろう。そう思うと、複雑だった。
「ごめんごめん。でも、スリルがあって良かったじゃない」
彩葉は気を取り直して自転車に乗り、理々奈を後ろへ誘った。
「このまままっすぐ帰る? 」
「どっちでもいいよ。でも四時くらいには、お店で着替えないと」
「じゃあさ、このまま四時までゲーセン行かない? いつものとこ」
「うん」
 ペダルを漕ぎ、家とは逆方向の駅に向かって自転車を動かす。大きな橋を渡るだろう。淀んだ色をした川も、少しは綺麗に見えるだろうか。
「ねぇ、理々奈」
「何」
「あたし達ってさ、レ」


 その途端、理々奈がスカートの中に手を入れてきて驚いた。余り急ブレーキを入れてしまい、二人して転倒しそうになる。
「さっきのお返し」
「びっくりしたぁー、もう、不意打ちぃ? 」
「言ってからじゃ敵わないもん」
 ぎこちなく勝ち誇っている理々奈を見て、笑った。素直に笑ったつもりだった。その後理々奈にさっき言おうとしていた事を聞かれたが、もういいの、とだけ 答えた。


 四時までゲームセンターで遊んで、それから浴衣に着替えた後、電車で会場まで向かった。途中の駅にも浴衣姿で乗り込む客が大勢いたので、二人で車両の中 を行き来して店の宣伝をしたつもりになった。特に理々奈には、他のどの連中よりもセンスの良い浴衣を着ている自信がある。
 駅を下りてすぐの会場で、サイレンと、彼にカメラを向ける慧靂を見つけた。慧靂が男を積極的に撮る事は無いので、浴衣にはしゃいでいるサイレンがせがん だのだろう。
「なぁに、二人で仲良さそうにしちゃって」
 近くから声を掛けると、ものすごい速さで慧靂が彩葉にカメラを向けようとしたので、すかさずレンズを手で塞ぐ。
「何だよ」
「声掛けた瞬間、とかどんだけぇ、どんだけぇ」
「いいじゃんかぁ」
「サイレンさん、こんばんは」
「どうも理々奈さん。今日は楽しみでしたよ」
 サイレンが微笑むと、理々奈は急に顔を赤くする。サイレンは少し痩せた。英会話講師をしているDOVAの経営が危ないので、最悪役者の稼ぎだけで暮らせ るよう身体を慣らしているらしい。
「二人で待たせるのちょっと微妙だったけど、平気みたいね」
「何で? 」
「や、あんまり二人でいるのって見ないし」
「そんな事無いですよ。慧靂さん、いい人です」
「写真撮ってくれるからだろ。テンション高いな、今日は」
「聞いた? 理々奈、チャンスチャンス」
「彩葉っ……もう、早く行こう」
「えっ、早く二人きりになりたいって。積極的ぃ」
「……知らないっ」
「あはは、ごめんごめん、じゃあ行こっか」
 彩葉が慧靂と腕を組んで、サイレンに手を振った。じゃあね。
「じゃあねって」
「うん。今日は二人ずつ、二人っきりずつ」
「ええっ? 」
「言ってなかったね、そう言えば。じゃあ理々奈、頑張ってねぇ」
 彩葉は呆気に取られるサイレンを尻目に、同じような顔をした慧靂を引っ張って出店の群れへと歩き出した。


 常に隣から、一眼レフの巨大な目に監視されているような気がする。瞳はガラス製で、瞳孔みたいに内部が動くカメラ。適当に辺りを眺めながら、シャッター から指を離さない慧靂。
「なぁ、金魚掬いやろう」
「いいね」
 百円を払い、薄い膜を張ったプラスティックの虫眼鏡と容器を受け取る。ビニールの水槽には、普通の金魚と、少ないが出目金が泳いでいる。
「俺が先にやるよ」
 慧靂は浴衣の袖を捲り、水槽の中央にいた金魚めがけて虫眼鏡をやった。虫眼鏡は金魚に触れる事無く、力を入れ過ぎたせいか薄い膜を綺麗に破いて帰りの水 面を抜けた。
「へったくそ」
 大げさに言うと、慧靂は憮然とした顔で彩葉を見る。
「何だよ。じゃあお前、捕れるか? 」
「捕れるよ。言っとくけどあたし」
 水槽の端にいる一匹に狙いをつける。壁の方に頭を向けて、それから方向転換しようとした瞬間。丸まって、突起が無くなった所が狙い目だ。
「上手いんだからねっ」
 素早く掬い上げて、水を張った容器に移す。虫眼鏡は破れてしまったが、それでも主人のお情けでは無い一匹。
「おっし」
 ガッツポーズをしたその時、シャッター音がした。振り向くと、慧靂の顔にカメラが張り付いている。
「おー、おめでとう」
 表情を見せずに言うせいで、棒読みのように聞こえた。実際、棒読みなのだろう。彩葉が金魚を取った事なんてどうでもいいのだ。なら自分の金魚掬いも適当 にやっていたのでは。そもそもどちらかを先にやらせる時点で気付くべきだったのだろうが。はいおめでとう、一匹ね、大事にしてやってね、商物だけどさ、そ いつは確か去年の縁日からの生き残りだからさ、おじさん愛着ってもんがね、ね、はい、ほら。彩葉はむっとしながらビニール袋を受け取り、もう一度慧靂に見 せ付けた。
「おーすごい、元気良さそうだな。じゃあ行くか」
 さっさと立ち上がる慧靂を見て、彩葉は溜息を付いた。自分達の事はサイレンと理々奈の事程心配してはいなかったが、慧靂は今日もこんな調子らしい。


「うちにいた金魚、おばあちゃんが可愛がってた金魚ね、何年だったかな、六年くらい生きてたの。すごい長生きでしょ。その子が生きてる時にね、あたしと ひーねぇもお祭りで金魚取ってきてね、お母さんとかはおばあちゃんの水槽で飼いなさいって言ったんだけど、それってなんかあたしの物じゃ無くなっちゃうみ たいでね、あたしそれがすごく嫌でさ、ひーねぇも同じだったのかなぁ。結局二人でお金出して金魚飼ったんだけど、すぐ死んじゃったの。四日くらいかな。夏 休みの間だったから一日中可愛がっててたのに。あの時おばあちゃんの水槽に入れておけば良かったって、すごく泣いたなぁ。あたしの物だなんて思わないで、 最後まで可愛がったんだし、水槽を選ぶ時に同じ気持ちで金魚の事考えられたら良かったのにって思ったの。でも、おばあちゃんの金魚と同じ水槽に入れてた ら、あたしそんなにあの金魚の事好きになれてたのかな? 」
 金魚を見ているうちに、そんな話をしていた。慧靂も、話を聞いている事には聞いているのだが、やはり右手がカメラのシャッターを押さえている。
「ねぇ、ちゃんと聞いてる? あたしの話」
「聞いてるよ。今度は長生きするといいな、そいつ」
「それ、答えになってると思う? 」
「うん。あぁ、おばあさんの所に帰ったら今度は育ててもらったら? 」
「……うん……」
 俯くと、またシャッター音。首から提げたままの時は、左手で上手くカメラを傾けて撮る。そんなに良い写真にはならないと思っているのだろう。カメラを見 ようともしない。
「あたしさぁ、いつも言ってるけど」
「うん」
「こういう時って、それに集中しないで欲しいな。少しも」
「いや、彩葉だって良い景色見た時とか、友達と写メ撮ったりするだろ」
「でも慧靂って、それに執着し過ぎだと思う」
「そういう感覚が伸びてるんだよ。自分で言うのも難だけど。小説書いてる奴がさ、例えばだよ、いい景色とか変な人間関係とか見た時、いつか作品にしようと か後で書いておこうとか、まぁその時紙とペンでメモしたりも出来るけどさ、要は後回しも利くと思うけど、写真はそうはいかないから。そうだろ? 初雪を踏 むのとさ、その跡に周りの綺麗な雪を流してもう一回踏むのも違うだろ? ダイアとかルビーとか、一杯その辺に散らばってる感じだな。それなら見つけられる 限り手に取りたくなる。俺が後になって出来るのは、その中から本当に綺麗なやつを選んで取っておく事くらいなんだと思う」
「途中から、話に無理あると思うんですけど」
「そうかな」
「少なくとも、本物のあたしがいる前ではね。ダイアとかルビーとかって、あたしは一人しかいないよ? 」
 後ろを向き、もう一度金魚掬いを見る。黒髪と金髪の仲の良さそうなカップルが、見合いながら笑っている。自分と慧靂の場合ならば、きっとカメラのフィル ターが間を遮るのだろう。
「それとも、あたしじゃなくても良いの? 可愛くて、綺麗で、自然に写真に写りさえすれば、それはみんな同じ宝石に例えて済む物なの? 」
「そうじゃないよ」
「そうじゃないなら」
 いつの間にか、深い話をしていると思った。何となく、四人で遊ぶのを二人きりでデートと言う事にして、何となく、希望を抱いて。それが全て現実にあっ て、表目にも裏目にも出ている事を実感した時、焦りと不安が噴き出した。喧嘩が延長したような形でこんな話に入ってしまった事に、少しだけ後悔する。二人 でもっと楽しむつもりだった出店の数々や人の群れが、全て砂で出来るのかも知れないとさえ思った。けれども、これから言おうとしている事が断片的に決まっ ている以上、もう後には退けなかった。
 不意に、理々奈とコンビニでキスをした時の事を思い出した。あれだけの事をやってみせた勇気その物では無くて、その後にあった違和感。小さな部屋の中で しか成立し得ない関係と、それとは関係なく回る外側。慧靂は外側にしかいない。
 だから、手を引いて欲しいのだ。
 連れて行って、見せて欲しいのだ。
「そうじゃないなら、もっとちゃんと言って。あたしって何なのか。それで、あたしにとっての慧靂も、きっと決まるから。どんな人に写真を撮ってもらえてる のか、それがわからないのとわかるのって、すごく変わると思わない? 」
 慧靂は俯いて、それからもう一度、彩葉を見た。
「目、瞑ってろ」
 言われるままに、目を閉じる。赤紫色の中に感じる白熱灯の跡、大勢の話し声、足音。その一番近くにある音が、段々と近付いている。唇が唇で覆われる。  傍を歩く人と、手がぶつかった。誰かが好奇心の混じった目で見ているのかもしれない。それでも構わないと思った。そのキスに違和感は無かった。


 最後の花火を見届けて慧靂と別れた後、近くの河川敷で理々奈と落ち合った。場所を決めたのは理々奈だ。もしかすると盛り上がったカップルがその辺に転 がっていて気まずい思いをしているのではと思うと少し心配だったが、実際その場所は祭とはまるで関係無いように暗く、澄んだ空気が漂っていた。堤防から見 下ろす川の水面が月明かりをギザギザに吸い込んでいて、それで何とか、理々奈の姿を見つける事が出来た。携帯の待ち受け画面で作ったライトを振りかざす と、理々奈も同じようにして応えた。
「お疲れ様」
「お疲れ、って疲れたねほんと。寝てなかったし」
「うん」
 二人で斜面の草むらに座る。対岸が薄らと見えるが、やはり誰かがいる気配は無い。
「さ、どうだった、上手くいった? 」
「彩葉から言ってよ」
「そうしよっかな」
 彩葉から先に、事の次第を話す。出店での出来事や、短冊の中身もそれなりに盛り上がる話題だったが、最も重要なキスと、それがそのまま二人の答えになっ た事を話すと、理々奈はやはりそこに一番の反応を見せた。
「え、すごい、本当に」
「うん、本当」
「どっちから」
「向こうから」
「へぇぇ」
「その写真は撮らなかったんだって聞いたら、撮る方の人間は撮られちゃダメなんだって。そういうの、まだよくわかんないけど、まぁいいかなぁ」
「良かったね」
「うん。で、理々奈はどうだったのさ」
「……あれ、やった」
「あれ? 」
「花火。彩葉が言ってたやつ」
「えええ」
 大分前から、自信の無さそうな理々奈に冗談半分で教えてあげた作戦があった。花火が鳴ったら、大袈裟に音に怖がる振りをして抱き付くという、教えた中で もかなり陳腐な物だ。裏目に出たら素直に謝ろうと思いながら、先を促す。
「で、どうだった? 」
「ならこうやって見てましょうか、って、ずっとそうしてた」
「……文化の違いってやつかなぁ」
「え? 」
「ううん、何でもない。でもそれも良かったじゃない。花火も結構時間あったでしょ。周りからしたらそれ出来てるって感じに見えてるよ、絶対」
「それもそうだけど、サイレンさん、今日ずっとすごく目立ってたから。すれ違った人みんな見てくるし。ちょっと恥ずかしかったかな」
「で、それからなんか無かったの」
「それだけ。それだけでも、嬉しいからいいの」
「そっか」
「彩葉こそいいの? そんなに良い感じだったら、もっと……何ていうか」
「泊まったり、とか? 」
「うん」
「……それは、出来ないよ」
 彩葉はゆっくりと言った。
「理々奈と、話したかったもん。これからする話」
「うん……? 」
「それに、あたしも理々奈も今日上手くいったっていうか、進展したから話せるの」
「そうなんだ」
「ねぇ理々奈、あたし達ってレイブなのかな。どっか飛んじゃってるのかな」
 同じ事を昼間に聞こうとして、止めていた。違和感の正体がはっきりしていなかったからだ。けれども今は、わかっている。二人でセックスをする事の閉塞感 と、存在する外側。自分達の本心がどこに向かおうとしているのか。
 理々奈はしばらく考えた後で答える。
「そうかもね」
 自分達のきっかけは何だったのだろう。今は思い出せなかった。特別な感情があったわけでは無かった気がする。そうでは無くて、好奇心とか、周囲の刺激と か、そういう物が二人を一緒に動かしたのだろう。彩葉には自分を理解してくれる理々奈が嬉しかったし、理々奈もきっと同じだと思う。
 学校で喋るようになってから、いつの間にか何所に行くのも一緒になった。オカルト研究会も一緒に作ったし、理々奈が兄の影響でデザイン画を描くようにな ると、彩葉も同じように絵を描く趣味を持った。好奇心を持った時、背中を押してくれる存在がいた。だから、そんな気になったのかも知れない。セックスの 時、同じ所を重ね合ったり、同じような声を出すのは好きだ。
「あたし今日ね、ちょっとそれが怖くなった」
 身体を重ねる時の快感は、最初からしばらく経った今でもほとんど変わらない。理々奈の柔らかい身体を抱く事に飽きる日が来るとも思えない。自分に対して も、そうあって欲しいと思う。
 だが、それで満足して、自分の中の時間が止まってしまうのでは無いかと思うと、それが怖くなった。キスをした時の、自分達と外側との隔たり。理々奈と一 緒に部屋の中、限られた空白の中に堕ちてしまうのでは無いかと言う不安があった。その空白の中で、本当に自分が追い求めている存在を忘れて、理々奈に満足 してしまう自分が怖い。その事に違和感を感じないまま外側との時間差がどんどん開いていくのが怖い。
「ねぇ理々奈、あたしとエッチするの好き? あたしは好きだけど」
「……好き」
「でもあたし達、本当に好きな人っていうか、したい人いるよね。それは何にもおかしい事じゃなくて、それがきっと、正しい事で。でもあたし達は、隠れて チューするのが精いっぱいだったんじゃないかなって。それって、何なんだろうって」
「……もうするの、嫌になった? 」
「ううん、そうじゃないの、だって」
 彩葉は周囲に誰もいない事を承知の上で、理々奈の身体に覆いかぶさった。理々奈の上に乗り、首筋に唇を当てながら指先で太腿をなぞる。
「こうしてるだけで、その気になっちゃいそう」
 理々奈は抵抗せず、すぐ下にある彩葉の顔を見ている。色の無い表情をしている。
「あたしね、理々奈。こういう時、理々奈の事が本当の恋人みたいに思えるの。そう思ってると、すごく気持ち良いから。理々奈はあたしの大好きな人で、好き だって思うのに夢中になってれば他の事なんか何も気にしなくて良かった。でもね、それがきっと、誰にも見られちゃいけない気持ちなんだなって思ったら、急 になんか、怖くなってさ。それに今日慧靂とあんな事になった時、あたし、なんだか辛くなってきちゃって。ごめんね、あたし、すごくひどい事言ってるかもし れない」
「辛いだなんて、思ってないよ」
「だからね、理々奈」
 理々奈の声を無視するように、強い声で言った。
「あたし達って、いつか終わるんだよね。いつか、自分で自分の相手を見つけて、それであたし達、終わってからまた友達に戻れるよね。あたし達って、そんな に狭い場所にいるために生きてるんじゃないよね」
 理々奈は彩葉に見えるように、ゆっくり頷いた。素直に嬉しくて笑顔を見せると、理々奈も彼女なりの顔で笑う。もう一度首筋に置いた唇から舌を出し、指を 太ももの付け根まで持っていく。
「止めて、って言った方が良い? 」
「ううん、わかっていたいだけだから。少しずつ、そうしていこうよ」
「今日はどうするの」
「うちに泊まっていって。寮の先生とか休みはいないから」
「また徹夜? 」
「いいじゃない、明日日曜だもん」
「……そうね」
 彩葉は理々奈から離れるように横側に寝転んで、月の見えない、遠くの空を見た。
「天の川ってあるよね」
「うん」
 天の川を思いながら漆黒のキャンパスに指で適当に線を引き、その両側に点を打つ。こっちが織姫で、こっちが彦星ね。
「うん」
「あたしと理々奈も、そんな感じだと思わない? 」
「どっちが織姫? 」
「どっちも織姫」
「それってあれに似てるね、吉川ひなのと」
「あったねぇ、そんなの。どっちがウェディングドレス着るかって」
「ね」
「ずぅっとあるんだよ、あの星。多分、これからも。心で繋がってるからかなぁ」
 
 終
モクジ